「無慈悲には愛を」
聖霊降臨節第6主日礼拝
讃美歌 510「主よ、終わりまで」

ペトロの手紙一 2章18-25節
今日の聖書箇所に「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」とある。
キリストが模範であるということは、キリストをまねて生きよ、ということである。
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えたキリストのように、否、敵を愛した、迫害する者のために祈ったキリストのように生きなさい、ということなのだろう。
22節以下に、イエス様の生き様が記されている。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」とある。
それはまさに“愛”の生き方だ。その愛の生き方が極まったものが「十字架」である。
ペトロは言う。イエス様は「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」と。
「わたしたち」の中には、イエス様を裏切ったペトロ自身も入っている。
今、ここにいる“私たち”は何者だろうか?罪の心を持つ者である。罪の心を持つ者として、神の敵であり、イエス様を迫害する者である。
しかし、イエス様は私たちを愛し、私たちの罪をも担ってくださった。
私たちは日常生活の中で無慈悲を感じたり、不当な苦しみを味わうことがある。
そのような難しい人間関係の中で、私たちクリスチャンはどのように生きるか?ということが問われている。
愛によって善を行い、しかし相手の言葉や態度によって苦しむこともある。
しかし、それで良いではないか、とペトロは語りかけるのである。私たちは不完全であるが、イエス様に力や希望、赦しをいただきながら、愛することを意識して歩めば良いのだ。
たとえ無慈悲と感じることがあっても、愛する一歩を進めていきましょう。
牧師 三浦 啓


