「愛を還元する」
受難節第6主日礼拝

マタイによる福音書27章32-44節
イエス様がエルサレムに入城された際、人々は棕櫚の枝を振り、「万歳」、「ホサナ」と叫びながらイエス様を迎えた。
そこにはイエス様に対する誤った期待があった。自分たちを苦しめるローマ帝国の軍隊を打ち破り、王国を復興する英雄を待ち望む期待である。
しかし、イエス様は、弟子たちに語られたように、「皆に仕える者」として来られたのだ。
「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」のだ。
この日から5日目の金曜日に、イエス様は十字架に架けられて殺される。
「万歳」という歓呼の声は、「十字架につけろ」という叫びに変わり、十字架に架けられたイエス様は、人々に侮辱され、ののしられながら死んでいく。
十字架にはりつけられたイエス様に対し、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」という人々の厳しい言葉が記されている。
つまり人々は、救い主メシアと呼ばれる「神の子」に、ある種の“力”を期待しているのだ。
ローマの軍隊を打ち破るような力を、十字架から降りられるような力を期待しているのだ。
その力を見せられない者は、神の子とは認めない。目に見える力とその結果を神の子に求める、神様に求めるのが彼らの信仰である。
イエス様は自ら十字架から降りられる力はあっただろう。しかし、その力をご自身のためには使われなかった。
イエス様の十字架には、ご自分のことを後回しにしても他人を救う神様の愛が秘められている。
イエス様に愛情を注がれている私たちも、毎日の生活の中で自分本位ではなく、愛を還元する歩みを進めていきましょう。
牧師 三浦 啓


